廣渡寺の歴史

History

名称

平壽山廣渡寺へいじゅざんこうとじは曹洞宗のお寺です。正式な読み方は『こうとじ』といいますが、地元の方々からは『こうどじ』や『こうどうじ』とも呼ばれ親しまれています。

歴史

境内に残る板碑には南北朝時代の建武5年(1338年)の記載があり、また江戸時代初期の慶安2年(1649年)に寺社奉行へ提出された文書によると、室町時代の永和2年(1376年)の開基との記述が見られます。おおよそこの頃には地域のお寺として信仰を集めていたことがうかがわれる記録です。
『新編武蔵風土記稿』によると、いつ誰が開いたかは不明とありますが、中興した花渓正春が永禄4年(1561年)に没したこと、その後能仁寺五世吉州伊豚が再興し元和2年(1616年)に亡くなったことが記されています。『飯能郷土史』によると、″思ふに地蔵を本尊とする此の一堂には相當の由緒があり、歴史があつたものの如く、さればこそ幾度か再興の手が及んだものである。″と評しています。また吉州伊豚は″唯仁慈ヲ以テ懐ト為ス″(ただいつくしむ心を大切にした)ような高潔な人物だったようであり、寺院を再興した際には、幕府から地蔵堂領として三石を賜りました。
更に元禄15年(1702年)には良田住持が再興したことや久留里藩主黒田家が能仁寺を参拝する際は廣渡寺を訪れていたとの記録もあります。
慶応4年(1868年)に旧幕府軍と新政府軍との間に起こった飯能戦争のあと、再建を担ったのは九世大龍鳳林大和尚でした。
″明治十二年五月鳳林和尚檀徒ノ輿望ヲ容レ當山ニ再住スルヤ檀徒双木八郎等ト謀リ伽藍ノ再建ヲ企テ衣資ヲ節シ浄財ヲ積ミ心血ヲ濺グコト三十五年設計漸ク成リ大正三年一月起工同五年三月竣成″とあり、その労苦が偲ばれます。

飯能戦争により、本堂や庫裡といった伽藍とともに、多くの古文書類が焼失してしまいました。
しかしながら、幸いにも廣渡寺がいつ頃からあるのかを伝えるいくつかの貴重な記録が戦災を免れ今にその歴史を伝えています。
このように廣渡寺は、多くの先達のご尽力ならびに檀信徒の皆様方のあつい信仰心とが親密に交わり今日まで歴史の糸が紡がれてきました。

▼昭和53年 本堂工事前

▼昭和53年 本堂工事前

▼昭和56年 本堂・客殿完成

▼昭和56年 本堂・客殿完成

▼現在の本堂

▼現在の本堂